輪外径 輪内径 郭外幅 郭内幅 輪厚 重量
1 第31図 115 図版55-115
蔵骨器
№13
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.30 1.75∼
1.85 0.75∼
0.95 0.55 0.13 3.05 銅
2 第31図 116 図版55-116
蔵骨器
№13
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.45 1.85∼
1.95 0.7∼0.9 0.60 0.13 2.75 銅
3 第31図 117 図版55-117
蔵骨器
№13
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.30 1.68∼
1.85 0.78∼0.9 0.6∼0.69 0.14 3.35 銅
4 第31図 118 図版55-118
蔵骨器
№13
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.30 1.7∼1.85 0.8∼0.95 0.60 0.10 2.30 銅
5 第31図 119 図版55-119
蔵骨器№3
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.46 1.7∼1.9 0.7∼0.9 0.57∼0.6 0.12 2.90 銅
6 第31図 120 図版55-120
蔵骨器№4 紹聖元寶 1094年 北宋 2.40 1.7∼1.75 0.80 0.58∼0.6 0.12∼
0.13 3.20 銅 篆書体
7 第31図 121 図版55-121
蔵骨器№4
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.45 1.7∼1.95 0.7∼0.85 0.55∼0.6 0.12∼
0.13 2.75 銅
8 第31図 122 図版55-122
蔵骨器№4
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.50 1.85∼
1.95 0.7∼0.9 0.60 0.13∼
0.14 3.75 銅
9 第31図 123 図版55-123
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.30 1.7∼1.9 0.8∼0.9 0.60 0.12 2.90 銅
10 第31図 124 図版55-124
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.45 1.85∼1.9 0.73∼0.8 0.60 0.12 3.20 銅
11 第31図 125 図版55-125
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.45 1.8∼1.9 0.75∼0.8 0.60 0.11 2.80 銅
12 第31図 126 図版55-126
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.40 1.87∼
1.95 0.7∼0.85 0.65 0.13 3.10 銅
13 第31図 127 図版55-127
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.30 1.76∼
1.87 0.7∼0.9 0.60 0.11 2.60 銅
14 第31図 128 図版55-128
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.29 1.70 0.75∼0.8 0.60 0.12 2.65 鉄
背上「元」
磁気反応あり 15 第31図 129
図版55-129
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.27 1.6∼1.75 0.7∼0.8 0.60 0.12 2.30 鉄
背上「元」
磁気反応あり 16 第31図 130
図版55-130
蔵骨器№4
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.50 1.8∼1.9 0.7∼0.8 0.60 0.13 3.55 銅
17 第31図 131 図版55-131
墓口前
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.48 1.8∼2.0 0.75∼0.8 0.60 0.12 2.80 銅
銭文が不明瞭 新寛永か 18 第31図 132
図版55-132
墓庭土坑
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.45 1.76∼1.9 0.71∼0.9 0.59 0.13 3.70 銅
19 第31図 133 図版55-133
墓庭土坑
寛永通寶 (古寛永)
1636年 Ⅰ期 2.27 1.7∼1.85 0.7∼0.9 0.55 0.11 2.85 銅
20 第31図 134 図版55-134
墓庭土坑
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.38 1.85∼1.9 0.7∼0.81 0.60 0.14 3.55 銅
21 第31図 135 図版55-135
墓庭土坑
寛永通寶 (新寛永)
1697年 Ⅲ期 2.43 1.85∼1.9 0.7∼0.8 0.60 0.10 2.35 銅 法量 (㎝・g)
材質 備考
№
挿図番号 図版番号
出土地 銭貨名 初鋳年 区分
65
第3節 009号墓
(1)遺構(第32図〜第33図、図版15)
009号墓は調査区丘陵の西斜面の北側に立地する。標高14.0m〜18.2mの牧港石灰岩を基盤とする丘 陵斜面に横穴を掘り込んで墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査に以前に廃棄され、墓口が開い ており、墓室からは甕形や御殿形などの蔵骨器が割れて散乱した状態で出土した。
チジ(屋根)は平面形が後方で緩やかに湾曲する馬蹄形を呈し、高さ約0.6mの石積みでヤジョーマー イが構築される。石積みは板状の切石が使用された粗い相方積みが見られる。ウーシ(臼)に繋がる屋 根周縁の石列は岩盤を約0.3mの高さで削り出して構築されており、周縁部の一部には切石が数個残存 する。チジ中央はほぼ平坦で盛り上がりは見られない。石敷きは見られなかったため、岩盤を緩やかな 弧状に削り出し後は盛り土等で表面を仕上げたことが考えられる。眉石も岩盤削り出しで成形されてお り、眉頂部は平坦に仕上げ、眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大 しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮ ウーシ(子臼)が配置される。墓正面も岩盤の削り出しだが、墓口に厚み約0.3m、幅約1mのジョウカ ブイ(門被い)と幅約0.15m、高さ約1mのシミイシ(隅石)が嵌め込まれている。墓口は高さ約1m、
幅約0.65m、奥行き(羨道の長さ)約0.8mである。サンミデー(供物台)は一段で、大小5個の切石で 墓庭との段差が設けられ、石敷きは見られない。向かって左隅にカビアンジ(紙銭焼き場)が造られる。
スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構築されている。墓正面や袖石の表面、チジ 周縁の石列に漆喰が一部残存していたことから、造墓当時は全面の漆喰塗布仕上げだったことが窺える。
墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が窺えた。岩盤の窪みに褐色砂質土を敷き、その上層 に石粉で仕上げている様子が見られた。ワラビヌティ(童の手)やナージミー(庭積み)も岩盤を削り 出しで構築される。ワラビヌティはナージミーの中間ほどで先端部が窄まる。右側のナージミーの高さ は約1.5mを測る。ジョー(門)が見られなかったが、現存の墓庭の法量は奥行き約6m、幅約6mを測る。
墓室は幅約2.6m、奥行き約2.6m、シルヒラシから天井までの高さ約1.7mを測る。牧港石灰岩の岩盤 に横穴を掘り込んで構築された墓室の壁は斜交層理が明瞭に見られた。タナ(棚)は奥側に3段、左右 に1段で奥棚と左右の棚に段差を設ける5類b型に相当する。棚は全て岩盤を削り出して造られている。
シルヒラシは横約1.5m、奥行約1.2mを測り、1㎝大の小礫が少量入った明黄褐色砂を敷き均らしている。
本墓の明瞭な造墓年代は明らかではないが、使用時期はマンガン釉甕形の安里編年Ⅳ期(1850〜
1890年代)ごろから始まり、図化を見送ったが上焼コバルト釉御殿形の身の銘書に「大正元年旧ノ六月 七日/子人父西原太郎」と確認できたことから、20世紀の初頭まで使用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第34図、図版56)
009号墓からは蔵骨器、沖縄産陶器、本土産磁器、煙管、金属製品、ガラス製品などが得られた。
蔵骨器はボージャー形、甕形、御殿形が出土している。墓室からの出土であるが、散乱した出土状況で 原位置を保っていない。身と蓋のセット関係は不明。銘書は西原姓のみが見られた。
第34図136はマンガン釉甕形の身で、口縁部が外反し、屋門は貼り付けのアーチ形。肩部文様帯およ び胴部は蓮華文が沈線で描かれ、胴下部文様帯は櫛描波状文が2条見られる。器形から安里編年の第Ⅳ 期(1850〜1890年代)の資料である。第34図136はマンガン釉甕形の身で、口縁部が外反し、口唇部
の中央が浅く窪む。屋門は貼り付けのアーチ形で、柱の下に台座のような意匠の貼り付けがある。肩部 文様帯に葉文を、胴部には蓮華文を沈線で描く。器形から安里編年Ⅳ期の資料と見られる。第34図138 および139はマンガン釉甕形の蓋である。138はつまみ台が2段で、かえりが見られない。139はつまみ 台が3段で、かえりは0.3㎝と低い。銘書きで見られた「新屋」は屋号と考えられる。蔵骨器以外は墓 庭から出土した。第17表、第34図140〜148に示すとおりである。
66
第3節 009号墓
(1)遺構(第32図〜第33図、図版15)
009号墓は調査区丘陵の西斜面の北側に立地する。標高14.0m〜18.2mの牧港石灰岩を基盤とする丘 陵斜面に横穴を掘り込んで墓室を構築した亀甲墓である。当墓は本調査に以前に廃棄され、墓口が開い ており、墓室からは甕形や御殿形などの蔵骨器が割れて散乱した状態で出土した。
チジ(屋根)は平面形が後方で緩やかに湾曲する馬蹄形を呈し、高さ約0.6mの石積みでヤジョーマー イが構築される。石積みは板状の切石が使用された粗い相方積みが見られる。ウーシ(臼)に繋がる屋 根周縁の石列は岩盤を約0.3mの高さで削り出して構築されており、周縁部の一部には切石が数個残存 する。チジ中央はほぼ平坦で盛り上がりは見られない。石敷きは見られなかったため、岩盤を緩やかな 弧状に削り出し後は盛り土等で表面を仕上げたことが考えられる。眉石も岩盤削り出しで成形されてお り、眉頂部は平坦に仕上げ、眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。両端部は肥大 しない。眉正面の庇部には小さな段が施されている。スディイシ(袖石)の上にウーシ(臼)及びクヮ ウーシ(子臼)が配置される。墓正面も岩盤の削り出しだが、墓口に厚み約0.3m、幅約1mのジョウカ ブイ(門被い)と幅約0.15m、高さ約1mのシミイシ(隅石)が嵌め込まれている。墓口は高さ約1m、
幅約0.65m、奥行き(羨道の長さ)約0.8mである。サンミデー(供物台)は一段で、大小5個の切石で 墓庭との段差が設けられ、石敷きは見られない。向かって左隅にカビアンジ(紙銭焼き場)が造られる。
スディイシ(袖石)は墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構築されている。墓正面や袖石の表面、チジ 周縁の石列に漆喰が一部残存していたことから、造墓当時は全面の漆喰塗布仕上げだったことが窺える。
墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行っている状況が窺えた。岩盤の窪みに褐色砂質土を敷き、その上層 に石粉で仕上げている様子が見られた。ワラビヌティ(童の手)やナージミー(庭積み)も岩盤を削り 出しで構築される。ワラビヌティはナージミーの中間ほどで先端部が窄まる。右側のナージミーの高さ は約1.5mを測る。ジョー(門)が見られなかったが、現存の墓庭の法量は奥行き約6m、幅約6mを測る。
墓室は幅約2.6m、奥行き約2.6m、シルヒラシから天井までの高さ約1.7mを測る。牧港石灰岩の岩盤 に横穴を掘り込んで構築された墓室の壁は斜交層理が明瞭に見られた。タナ(棚)は奥側に3段、左右 に1段で奥棚と左右の棚に段差を設ける5類b型に相当する。棚は全て岩盤を削り出して造られている。
シルヒラシは横約1.5m、奥行約1.2mを測り、1㎝大の小礫が少量入った明黄褐色砂を敷き均らしている。
本墓の明瞭な造墓年代は明らかではないが、使用時期はマンガン釉甕形の安里編年Ⅳ期(1850〜
1890年代)ごろから始まり、図化を見送ったが上焼コバルト釉御殿形の身の銘書に「大正元年旧ノ六月 七日/子人父西原太郎」と確認できたことから、20世紀の初頭まで使用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第34図、図版56)
009号墓からは蔵骨器、沖縄産陶器、本土産磁器、煙管、金属製品、ガラス製品などが得られた。
蔵骨器はボージャー形、甕形、御殿形が出土している。墓室からの出土であるが、散乱した出土状況で 原位置を保っていない。身と蓋のセット関係は不明。銘書は西原姓のみが見られた。
第34図136はマンガン釉甕形の身で、口縁部が外反し、屋門は貼り付けのアーチ形。肩部文様帯およ び胴部は蓮華文が沈線で描かれ、胴下部文様帯は櫛描波状文が2条見られる。器形から安里編年の第Ⅳ 期(1850〜1890年代)の資料である。第34図136はマンガン釉甕形の身で、口縁部が外反し、口唇部
の中央が浅く窪む。屋門は貼り付けのアーチ形で、柱の下に台座のような意匠の貼り付けがある。肩部 文様帯に葉文を、胴部には蓮華文を沈線で描く。器形から安里編年Ⅳ期の資料と見られる。第34図138 および139はマンガン釉甕形の蓋である。138はつまみ台が2段で、かえりが見られない。139はつまみ 台が3段で、かえりは0.3㎝と低い。銘書きで見られた「新屋」は屋号と考えられる。蔵骨器以外は墓 庭から出土した。第17表、第34図140〜148に示すとおりである。